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愛の崇高な対象

[EN/JA]

主体が欲求する前に、常に既に欲求の主体である。従って、純粋な欲求は生産と消費の領域を先回ることができる。愛の快感原則からの根本的な脱離を我々は立ち会う ⸺ 「愛に落ちる」ということは、the base of subject itself is disrupted and dissolved into a storm of sensations which are violently superimposed and fluctuating. Is not love a complete disregard for the consequences, representations, and social orders?

この文章は授業内のプレゼンテーションのために書かれた絵本の分析だ。絵本はここへ

エバとアダムの人類史最初の一目惚れ。周知のように、神は男のアダムの肋骨から女のエバを創造したそうだ。古くて家父長制臭い物語だが、フロイトの発見を示すいい例でもある。初めてエバに出会った時、アダムはこう感嘆の声を上げた「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これをこそ、女と呼ぼう。まさに、男から取られたものだから」(創世記2・23)アダムがフロイトを読んだことないのは残念なことだ。フロイトを熟知している人ならば、アダムの言葉がナルシズムという対象選択であることにすぐ気づくであろう。アダムはエバの中の自分、つまり、2人の共通点に目を向けた。

『愛情生活の心理学への寄与』(Contributions to the Psychology of Love)の中で、フロイトが愛情に関する理論を構築した。ロマンチック、もしくはエロチックな関係にとって、原型になるのは母の乳房を吸引する幼児だとフロイトが示してくれた。愛はただ原初満足を繰り返そうとすることにすぎないように見える。満足が欠乏している主体と満足を象徴するオブジェクトの間で、この関係は築き上げられる。したがって、こういう愛情の対象は人ではなく、乳房であり、オブジェクトである、とはっきり言わなければならない。このような愛を愛情を呼ぶことはしない。少なくとも、完全な愛情ではないと言えるだろう。成熟した愛情の対象はただのオブジェクトではなく、人なのだ。

この絵本の中に登場した二つの種類の対象を混同してはいけない。仲間の蛙たちは遊びやチョコケーキなどの身体的な快感を主人公の蛙にあげようとした。すなわち、ニーズを満たせる快感を提供しようとした。しかし、月の微笑みに関して蛙はこう言った「音楽のように、最も綺麗な花火のように、綿菓子とチョコケーキとイチゴのトライフルと、好きな食べ物を同時に食べるように」小さな蛙にとって、全ての好きな食べ物を食べ切れるはずがないということを加えておこう。月から感じ取った、この過剰でふらふらとした享楽は欲求の境界を明らかにした。ニーズは満たされたら消えるものに対して、欲求そのものは過剰である。絵本の中に花火や食べ物などの快楽のふりをして現したが、欲求は快楽、満たさせるかどうかの境界を超えている。さもなければ、蛙にとって一つのチョコケーキがすでに足りているかもしれない。小さな蛙は自分の空想を、欲求の持続を享楽している。ここで、我々は一つ重要な洞察にたどり着く:欲求こそがオブジェクトの桎梏から抜け出すことができる。

しかし、空想は蛙にとって悪いことではないのか。結局、月は高嶺の花であり、蛙は不可能なものを夢見ているだけだ。蛙に耐えられない欲求不満、精神問題をもたらすことになるのではないか。欲求の機能についてここで考えてみよう。我々が欲しがるものはいつもニーズを満たして得た快感を指すとは限らない。拒食症の例を見てみよう。食事の身体的な快感を拒否することによって、親からの愛と関心が欲しいという欲求を表現している。

空想は自然な精神活動だ。我々は数え切れないほど空想をする。空想はただ我々の欲求を幻想的に実現しているのではない。むしろ、我々の欲求を構築し、欲求の対象を具現化することは空想の役割だ。すなわち、空想は我々が何を欲求すればいいかを教えてくれる。絵本の物語を例にすると、月が蛙の欲求の対象だが、アクセス不可能なので月に対する欲求が空想になったという理解は間違っている。そもそも、月はどうやって蛙の欲求の対象になれたのか。月が未だかつて微笑んだことがないのは周知の事実である。つまり、空想が蛙に欲求の対象を教えたのである。

我々の欲求が初めから不可能であることに応じて、空想の役割は決められる。欲求の対象である月はそこに存在する一方で、アクセスできないというわけではない。むしろ到達できない、障害に妨げられた対象を措定することにより、障害がなければ、月が高く空になければ、対象自体がアクセスできるという幻想を築き上げた。つまり、外在の障害を通じて、欲求が対象を持たなくて満たされることができないこと、欲求の内在の不可能性を抑圧した。月はただ欲求の構造の穴、その空っぽさを塞ごうとする不可能の対象である。この視点から見ると、不可能な対象に駆って精神問題をもたらす欲力というよりは、空想はすでに防衛メカニズムの一種なのだ。欲求の対象の喪失と形容されるメランコリーの体験もこの見地の一例であろう。

ここまでは蛙が月に対する空想を支持する主張を述べた。ある程度、他の蛙たちが声かけた時に主人公の蛙は向きを変えてはいけない。なぜなら、もし向きを変えてしまえば、他の蛙たちに誠実にこういうべきだからだ「あなたたちがくれる快感のために今向きを変えたけど、将来より多くの快感がどこかにあれば、きっとあなたたちから離れるのだろう

蛙は結局のところ向きを変えたが、一つ見逃してはいけない細部がある「蛙の前に微笑みが百個見える。百個の小さな光のように微笑みが蛙の心に入った」空想の対象たる月の微笑みと、蛙が他の蛙たちから見たこととの同一性を強調していると理解するのが妥当であろう。主人公の蛙は自分の空想、欲求を諦めたのではなく、あくまでも欲求を最後まで貫いた。空想に見える外在の障害は愛の中の本体論的不可能になってしまったのだ。さて、如何にしてこのようなことが起きているのであろうか?

『フェティッシズム』の文章の中で、フロイトがフェティッシュの偶発性を示した。フェティッシュの対象はものではなく、実質的ではない何かだった⸺鼻の光沢。光沢というものは日の目を見ることに耐えられず、隠れることでのみ存在できる。同じように、微笑みは欲求の歪みからの付随現象である。恋人から感じた幽玄なオーラのように現実に存在していない。言い換えると、主人公の蛙は他の蛙たちが持ってないもののために、ミステリアスで存在せぬもののために、蛙たちを愛することができたと言えよう。ここにある愛情は対象の優劣を区別させるものに対する愛情ではなく、愛だけのための愛情に昇華した。無条件の愛情そのものだ。主人公の蛙にとって、他の蛙たちは普通の蛙でもあり、崇高な月でもある。真なる愛情が可能になるためには、崇高で不可能な対象がまず存在することが大前提であり、その次にその対象と愛する人とを重ねなければならない。