二月 | 愛の断章(Qからの手紙)
私たちは原家族から受け継いだ強さと傷を抱えたまま、エリクソンのいう「親密性対孤立」の段階へと入っていく。喪失、剥奪、不可能性に直面しながら、それでもなお愛することを選ぶ力、そこにこそ人間であることの理由があるのだと思う。
「あの強い自己愛は、病という重荷から自分を守るためのものだ。だが、病まないためには私たちは愛さなければならない。それが最後の方法なのだ。もし挫折のために愛せなくなれば、私たちは病むほかない。」
最初の戸惑いをくぐり、一度は離れ、それでも私たちは互いを知り、愛し合った。あなたとの未来を思い描きながら、私たちは互いにとっての贈り物なのだと思う。
Qより、2018年2月14日
かつての自分の親密性に名前をつけるなら、私は疎離型の人間だった。
私はずっと、他人に近づく必要などないと思っていた。他人に依存されることは、私の自由を妨げるものだった。
自由を守るためには、自分を守らなければならない。だから私は、自分を親密な関係から切り離してきた。コミットメントについて真剣に考えたこともなかった。関係を確認することは、相手が私をコントロールし始める合図のように見えた。自分の独立性を守るために、好きになる度合いを抑えた。自分から連絡しないこと、感情をそのまま表に出さないことを、自分に言い聞かせてきた。誰かを好きになりすぎて生活の重心が崩れるのを避けるために、同時に何人かを好きになろうとしたことさえある。関係における忠誠を守らないことまで考えた。
けれど、現実の恋愛のかたちにも、私は失望していた。誰かを愛しているとき、人は本当にその人を愛しているのだろうか。それとも、「恋愛」というものに憧れているだけなのだろうか。
見渡せば、SNSの恋愛はいつも同じだ。きれいに盛りつけられた料理。かわいい動物。悪ふざけの動画。人であふれる観光地。インスタ風のポートレート。そういうものを投稿して、相手をタグ付けし、ハートの絵文字を添える。恋人が変われば「○月のみ公開」になり、タグ付けする相手だけが変わる。10万ビューを集めるアカウントが量産する愛の言葉。使い古された修辞の、果てしない反芻。
日常に流通する俗っぽい恋愛も同じだ。「忠誠と裏切り、物質と愛」という何度も繰り返される主題。伝統的な結婚観や恋愛観のなかで固定されるジェンダー役割。「男は女にプレゼントや現金を渡すべきだ」という期待。口紅などの化粧品が恋人への定番ギフトになり、「彼氏殺しの難問」と呼ばれる終わりのない試し行為が、カップルであることの記号になっていく。
そんな目を疑うような事実を前にして、私は思った。これは愛とは何の関係もない。
だから、以前の私に「愛とは何か」と尋ねたなら、答えはたぶん「陥落と破滅」だった。
では、今の私にとって愛とは何か。
愛とは、アレックス先生のことだ。
アレックス先生こそ、私にとっての愛の定義だ。彼が、私の愛なのだ。
最近いちばん強く感じているのは、愛は、一目惚れで完璧な相手に出会い、何の努力もなく、運命のように結ばれることではない、ということだ。
私は完璧ではない。虚飾もあるし、俗っぽさもある。もしかすると、前半であれほど大口をたたいて恋愛をこき下ろしたのも、自分が人と違うことを誇示したかっただけなのかもしれない。とはいえ、少し弁解しておくなら、あの批判は自分を戒めるためのものでもあった。私が欲しかったのは本当の愛であって、世間が定義する恋愛を体験することではなかった。だからこそ、私は自分を好き勝手に愛へ委ねないようにしていた。
愛はむしろ、不完全な二人が、受け入れ合い、話し続け、励まし合いながら自分を変え、よりよい関係を築ける人間になっていくことだ。真実の愛の道が、平坦だったためしはない。
前に、彼と何を話したのかはもう忘れてしまったけれど、私を少し落ち込ませる出来事があった。彼にとっては、不満を言わずに「よくはないけれど、私はあなたを受け入れるよ」という態度を取ること(彼は絶対にそんなふうにはしないのだけれど笑)より、私がわけもなく自分を責めるのをやめて、彼と一緒に自分を発見していく過程をもっと楽しむことのほうが大切なのだという。
そのとき、ふいにこんな言葉を思い出した。「愛は結果ではなく、過程である。人と人とのあいだに、完全に理解しきったうえでの共感などありえない。『私はあなたをわかっている』と言う人は、傲慢か嘘つきのどちらかだ。けれど、『あなたを理解することをあきらめない』というその過程だけが、愛の本質なのだろう。」
淡豹先生は、同性婚について少し違った角度から考えた文章を書いていた。同性婚が多くの国で合法化されたことは、一方で、婚姻制度そのものの根深さを示している。愛は、法的登録や法の保護、財産関係と対応づけられる。大人の社会で積極的に承認される、成熟した「正しい」愛とは、どうやらこういうものらしい。まして、かつての私の「愛は恐ろしい災厄で、逃げるべきものだ」という幼稚な恋愛観など言うまでもない。
孤勇を抱いた愛を感じ取ることは、ますます難しくなっている。
愛する人が日本で暮らしているせいもあるのか、少し前にふと思い立って『東京ラブストーリー』を見返していた。
「恋愛っていうのはね、参加することに意義があるのよ。たとえ結末がなくても。誰かを好きになったその瞬間は、決して消えない。それは生きていく勇気になるし、暗闇の中の一筋の光にもなる。」
彼のいちばん好きなところの一つは、自分の愛情をほとんど隠さないことだ。損得を勘定しない。私のように、得ることと失うことへの不安の渦のなかで揺れ続けたりもしない。彼は、愛のなかの美しくて単純な瞬間をちゃんと覚えている。そして自分自身を、恋人を支える背景のような力にしていく。遠く離れていても、私は彼の腕の中に沈み込んでいるように感じる。
あなたは私の幸運だ。愛している。
せっかくのバレンタイン気分に乗って、ついでに少し日常のことも気ままに書いておきたくなった。笑
今日は彼と一緒に『Florence』というゲームをやった。(たぶん人生で数少ない、私がちゃんと集中して遊んだゲームの一つだと思う。)
そのなかに、恋に落ちた男女が、男性のほうが女性の家に引っ越してくる準備をしながら、一緒に持ち物を片づける場面がある。見ていて思った。恋人と同棲を始めること。自分の持ち物を整理すること。相手の新しいものに、家の中で居場所を与えていくこと。その過程そのものが、愛にとてもよく似ている。
その流れで自然に、家の中で物をどう置くかという話になった。彼は最近引っ越す予定で、部屋のレイアウトを考えながら、家の中にもう少し私の気配を増やしたいと話してくれた。たとえば、クローゼットに君のものをしまう場所を少し空けておきたい、と。
たとえ遠距離で、実際に一緒に暮らす時間がほとんどなくても、彼は、自分の生活の中にはいつも私がいて、ただ今はたまたまここにいないだけだ、という感覚を作りたいのだと思う。
私の愛が、メッセージの中の甘い言葉や、ビデオ通話に映る生き生きとした顔だけではなく、あなたが私を「日々をともに過ごす存在」として迎え入れてくれる、そのことの中にも表れていると感じさせてくれて、ありがとう。
最後に、愛についての余談を少しだけ。まとめのようなものとして。
以前、「恋愛がまるで互助会のように持ち上げられている」と小ばかにしていた私も、結局は自分の身をもって、自分の言葉をひっくり返すことになった。笑
アレックス先生と一緒に過ごすようになってから、自分の外側に貼りついたいろいろなタグを、少しずつ剥がそうと意識するようになった。先生や権威ある人たちの論理を、一つひとつ疑っていいし、疑う必要があるのだと、何度も自分に言い聞かせるようになった。人と違っていることの価値を信じて、これまでしなかったようなこともたくさん試した。
一見すると、いかにも「優等生的な」考え方に見えるかもしれない。でも、もし本当に彼の影響のもとでそれを自分のものにできるのだとしたら、それは愛が私にもたらしてくれた最大の驚きなのだと思う。
私も、あなたへの贈り物になれるように努力する。あなたは、わかっているよね。
愛している。💙